武州中島紺屋さんのこと

「藍染暮らし」のなかむらの人生を変えた「武州中島紺屋」さんのご紹介です。

現在、埼玉県羽生市にある「武州中島紺屋」は、天保8年(1837年)伊勢から渡った初代「鶴吉」さんにより創業されました。当時は主に白木綿を藍で染め、野良着を作っていたそうです。

江戸時代後期、町民文化が花開いた時代。日本人の衣服は織や柄、染めとともに一段と多彩になります。この美しいファッションは藍染めの専門職である「紺屋」により展開されたのです。庶民の作業着から、高級な衣装、寝具やのれんなど、あらゆるところに藍が使われていました。

明治8年(1875年)に来日したイギリスの科学者アトキンソンは「日本はあっちもこっちも青いね~。この国は美しい青の国だ!」(「なかむら」訳!)と言い、その光景を「ジャパンブルー」と表現したと言われています。 これは「武州中島紺屋」二代目の「仁助」さんの時代。商才にもたけ、財を成したそうです。

しかし。

三代目の「藤吉」さんの時代には藍染めが衰退し始めます。日本もインド藍の輸入を開始。さらに、明治36年(1880年)にはドイツで化学染料が開発され、化学インディゴが誕生しました。時代の変化とともに、天然の藍による日本の染色産業は急速に衰退。この時代を生きた三代目は、半農半商で苦労し早くに亡くなりました。

三代目が亡くなったのは、四代目の安夫さんが中島紺屋に従事するようになった3年後。農家の近代化により藍で染めた野良着の需要も減少、機械化により天然の藍染めは衰退の一歩をたどります。「苦労する父の姿を見て育った」と現在の代表の言葉。大変な時代を守りぬいて今があることを実感します。

昭和50年代。

高度経済成長が終焉をむかえます。「大量生産・大量消費」の使い捨て時代から、伝統的な手工芸品が見直される時代になりました。
四代目は昭和59年にサンフランシスコで武州藍染展を開催します。これを期に米国でも「ジャパンブルー」が見直されるようになり、1997年にはカリフォルニア芸術大学の客員教授として技術指導を行うようになりました。 1987年「埼玉県指定無形文化財藍染技術保持者」の認定を受けています。
1990年代、四代目は古代エジプトのツタンカーメン王の衣装を藍染で復元するという国をまたいだプロジェクトに参加。調査、研究、試験染めを重ね、インド藍で染めた糸を提供します。

2013年10月~12月には、スウェーデンの博物館にて所蔵されていたツタンカーメン王の衣装を借り受け、埼玉県羽生市にある武州中島紺屋「藍染め資料館」にて「ツタンカーメンの衣装展(TUTANKHAMUN’S WARDROBE)」を開催しました。

そして、今、五代目の時代。

伝統工芸と関わることもなく生きてきた私が、この歴史ある「武州中島紺屋」さんと出会えたことは奇跡です。先人たちにより、開かれ守られてきた日本の伝統的な藍染め文化。「ジャパンブルー」の美しさに心が動くのは、日本人のDNAなのでしょうか。

だからこそ、その文化を生み出した藍染を、これからも残したい。苦労しながらそれを受け継いできてくださった先輩方に敬意を表し、わたしができることをちゃんとやりたいと思っています。

追伸: 驚いた(‥)。わたしのご先祖さまは「染め屋」だったんだってー。

写真は、埼玉懸信用金庫さんの2016年カレンダー「埼玉県の技 100年後にも残したい美しい姿」。五代目 新島大吾さんの写真の部分を引用させていただきました。